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  • 私たちは養鶏場のニワトリだ。??

    私たちは皆、、養鶏場の中に棲んでいるようか気がします。
    そこは屋根と壁に囲まれ餌は供給されるとても居心地の良い空間です。
    何不自由なく生きて行ける!
    養鶏場の中の世界のことは360度見渡せるしなんでも知っている。

    ところが、、
    ここには雌しかいない?産んだ卵は誰かが処置してくれている?
    外はどうなっているんだろう??そんなこと知る必要もない?
    何も疑問や好奇心を持たずとも何不自由なく快適に過ごせる。
    面倒なこともあるけど、、そういうもんだ。それがあたりまえだ。

    天才的な先輩方の言うのに、知れば知るほど自身は何も知らなかったことに気づくとか。
    愚か者の方々の方が、よほど何もかも知っている。

    この建屋は思い込み・そういうものだ・あたりまえだ・常識だ・という素材でとても丈夫で硬い!かなづちでたたいても絶対壊れない。
    ココを出るものは変人扱いされる。

    けど、絶対的に自由だ。養鶏場の外は自由だ。
    なかには養鶏場の檻から脱出したのに、、檻に向かって彼らと対面して同じ餌を食べている方々もいる・・・

    ココを出るのも本当は、それも、自由だ。
    目の前のモノゴトにただそれが真実か?疑問を持つだけだ。たったそれだけの事。
    既成概念を破壊するだけだ。

  • バードビュー feeling

    バードビュー feeling

    バードビュー、鳥の眼から見た視界、添付の画像は以前家族で空を飛んだときのものです。
    まるでトンビになったかのような気持ちと視界の体験でした。私たちはとかく身のまわりの情報に影響を受け本来の姿を見失ってしまう傾向にありますよね。

    円錐を思い浮かべてみてください。そういうと誰でも立体的な円錐を想像できるでしょう。ところが視点が近すぎますと、単なる面しか見えないとか、尖ってる部分しか感じられないとか、視点によっては三角形にしか見えない、ただの円にしか見えないとか。いろいろを感じられる人は、それは円錐で、どの位の大きさで、それが豆腐で出来ていて水分量がおおよそ90%だとか、やや甘さがあるとか柔らかさとか…、何もかもの多くを感じられる感覚もあるでしょう。

    ところが!! そんなこの豆腐でできた円錐も、手のひらも、桜の花も、小川の流れも、もうちょっと遠くから見ると、、

    青いビー玉にしか見えないんですよね、。

    そう、月から地球を見ると…。

    しかしそれぞれ全て正しいんですね、興味深いことに。

    正しさっていったいなんなん…なんなのでしょう!???

    鳥の視点から私たちの世界を見ても、国境の線は存在しない、言葉は存在しない、時間という概念を感じない、所有という概念が存在しない、忙しさを感じない、問題は存在しない。次元が変わりますね。

    ふと常識に囚われて流されてるなぁと思ったときはバードビュー?鳥の気持ちになってみる、興味深いんですよ!!

    むしろ問題やら容易に解けてくるし感覚で物事を感じ取れるようになる。なぞなぞと似てるとこありますね、常識をいったん棚上げして感覚を広げないと本質が現れないところ。^^

  • コロナ騒動 あたたかい未来

    コロナ騒動 あたたかい未来

    なにか安心や希望を…。

    この世の全てのモノコトに良い面悪い面が共存している気がする。大切な愛しい家族ですら…なくすの想像出来ないですよね、、。たぶんこのコロナ騒動もそう。皆、今、嫌な面だけを感じさせられてるけど、この不安量と同じ規模の恩恵がありソレを見出し感じられるはず。🌈   かつて第二次世界大戦の真っ只中の日本人はこの戦争に万が一負けたら日本は無くなってしまうと誰もが心配したはず。…でも実際はこんなにも素晴らしい日本が今ココに存在しているわけで。

    明日も世界も思ってるより明るくやさしくあたたかい、と私は思う。

    タンポポ、 二度花が咲くんですね。
  • 水仙の後ろ姿

    水仙の後ろ姿

    その恥じらいがちな後ろ姿 はがゆくてあいらしい…

     

  • 全体意識の不思議

    全体意識の不思議

    イワシの群れ って観てますと、、ひとつの生き物のようですよね。不思議…。
    ひとつひとつは、ひとつなんだけど、数千匹になるとまた全体としてのひとつの生き物に感じます。
    一番左のひとつが方向を変えるとき一番右のひとつも瞬間的に方向を変えているように見えます。
    もうひとつの意識、全体意識?集合意識としても生きているんだと感じます。
    ヒトも、ひとりひとりでありながら家族であったりスポーツチームであったり集合意識に近い状態を体験しているはずです。
    また、車を運転している時もそうじゃないですか??
    右側で運転しているんだけど、全体を感じていませんか??
    左後ろ端をぶつけても自分の一部をぶつけた感覚を感じませんか。
    で、テニスの、例えばラファエルナダルとか、ここぞという時のダウンザラインのショットが相手のコートの隅を突く!!
    あの瞬間!! これって、コレも、全体意識だと思うんですね、自身もボールもコート全体も、
    もっというと相手選手も、観客すらも…。
    あんだけノッテいる時って、、左手の人差し指で自分の右足のくすり指を触る、という動作となんら変わらない!?と思うのです!
    で、マザーテレサもそう!? 銃口を向けた敵兵士の傷口すら、、自分の足の小指に絆創膏を貼る動作と同じだと思うのです。
    それがヒトのスケールや器の大きさを感じるのだと思うんです。
    仕事も友人関係もそう、私にとっての都合というのでなく、、たずさわる全体としての自分になりその全体意識にとっての目指す価値や結果に努めたいと心がけていたいと思うのです。
    これは「相手のため」という視点でなく、全体としての自分自身のために行う行為で、自分を大切にするとか自己中心的、という感覚です。
    災害ボランティアなんかもそう。誰かのためにという感覚も持ちつつもやはり自分の庭を片付ける感覚も感じます。
    その感覚でいるときは、個体の自分でない全体の誰かが感じた感覚を自己として感じられるようになることを経験し始めるから不思議です。たぶん未来も…。
    とかく私たちはその自身の体重のワタシという認識が99%を占めているはずですが、、
    その場その場で自己は変幻自在に大きさを変えて感じてみる、体験してみると、世界の見え方が変わってくるんです。
    ぜひ、お試しを☆彡