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  • 雪の夜明け前。大糸線‥アルプス・オリエント急行

    雪の夜明け前。大糸線‥アルプス・オリエント急行

    久々のまとまった雪が降りまして。いい年して…、雪が降るとわくわくぞくぞくしてしまいます。15cmほど積もったでしょうか、程々の積雪だと平和で風情があって助かります。この位がちょうどいい。松本・安曇野は表情ゆたか‼

    始発の北へ向かうJR大糸線です。まるで銀河鉄道みたいだ!列車の姿もちょうどよい距離感で真っ白で真っ暗な夜明け前の安曇野の田園の宇宙を光の帯がビームのように北アルプスへ走ってゆく。実際には窓の中もそれなりに感じられるほど見えているんですけれどもカメラを使いこなせていないというか望遠レンズもないしイマイチ臨場感を伝えられないところが微妙なところ…。単焦点レンズのリコーGRⅢというカメラで撮っています。

    オリエント急行殺人事件という映画をご存じでしょうか?パリからイスタンブール間を走る列車の旅のサスペンス映画ですが、そのシーンの中で本物のアルプス沿いに列車が走ってゆくんですが、、あぁ~いいなぁぁ、ワタシもこんな景色の列車旅がしてみたい…と、思ったのですが、、よくよく振り返ってみると、、まさにソコを走っている大糸線が松本から日本海へと北アルプス沿いを走っている列車なのでした!!!!惜しくもあんなに素敵な食堂車こそないものの、いつでも乗れるじゃん!!!ですね…。

    近いうちにお気に入りの駅弁でもGETしてオリエント急行の映画とその列車に身を委ねてみよう☆とほくそ笑んでいます。

    お奨めの季節は北アルプスに雪があり森に緑に湖のある4月から6月あたりでしょうか!? ぜひ塩の道・千国街道を北アルプス列車に乗って電車旅を愉しんでみてください。

  • 全体意識の不思議

    全体意識の不思議

    イワシの群れ って観てますと、、ひとつの生き物のようですよね。不思議…。
    ひとつひとつは、ひとつなんだけど、数千匹になるとまた全体としてのひとつの生き物に感じます。
    一番左のひとつが方向を変えるとき一番右のひとつも瞬間的に方向を変えているように見えます。
    もうひとつの意識、全体意識?集合意識としても生きているんだと感じます。
    ヒトも、ひとりひとりでありながら家族であったりスポーツチームであったり集合意識に近い状態を体験しているはずです。
    また、車を運転している時もそうじゃないですか??
    右側で運転しているんだけど、全体を感じていませんか??
    左後ろ端をぶつけても自分の一部をぶつけた感覚を感じませんか。
    で、テニスの、例えばラファエルナダルとか、ここぞという時のダウンザラインのショットが相手のコートの隅を突く!!
    あの瞬間!! これって、コレも、全体意識だと思うんですね、自身もボールもコート全体も、
    もっというと相手選手も、観客すらも…。
    あんだけノッテいる時って、、左手の人差し指で自分の右足のくすり指を触る、という動作となんら変わらない!?と思うのです!
    で、マザーテレサもそう!? 銃口を向けた敵兵士の傷口すら、、自分の足の小指に絆創膏を貼る動作と同じだと思うのです。
    それがヒトのスケールや器の大きさを感じるのだと思うんです。
    仕事も友人関係もそう、私にとっての都合というのでなく、、たずさわる全体としての自分になりその全体意識にとっての目指す価値や結果に努めたいと心がけていたいと思うのです。
    これは「相手のため」という視点でなく、全体としての自分自身のために行う行為で、自分を大切にするとか自己中心的、という感覚です。
    災害ボランティアなんかもそう。誰かのためにという感覚も持ちつつもやはり自分の庭を片付ける感覚も感じます。
    その感覚でいるときは、個体の自分でない全体の誰かが感じた感覚を自己として感じられるようになることを経験し始めるから不思議です。たぶん未来も…。
    とかく私たちはその自身の体重のワタシという認識が99%を占めているはずですが、、
    その場その場で自己は変幻自在に大きさを変えて感じてみる、体験してみると、世界の見え方が変わってくるんです。
    ぜひ、お試しを☆彡
  • 私の目指す

    友人から本借りまして…
    方丈記、少し読み初めましたよ。興味のある所から。
    けっこう、、というか想定外に気づかされたことがあって。

    近ごろ何かと自分自身がやたら加速してるから。
    読まずにいなくてよかった。
    むしろ貸していただいてよかった。
    私も嫌いじゃない世界観でした、以前は。
    徒然草や枕草子のような随筆や人生観の哲学でもあり

    ただ”何か”が物足りなく感じることを確実に感じ取りました。
    おそらく春の日差しのようなエネルギー的源泉です。
    物事から本質を感じ取りしなやかに生きる、
    晩秋のしなやかさを感じます。

    一方、全英優勝の渋野日向子は初夏のような陽気なエネルギーをまぎれもなく感じた。
    個人だけでなく、優勝争いしてるライバルさえも、ゴルフ場全体の空間のすべてををも味方にしてゆくようなささやかで最も力強いエネルギー体。
    コレ☆、だわな、とはこのところつくづく思っていました。

    いわゆる近頃興味があるのは自然や宇宙や世のしくみ。 絶対的に無限大で広くて軽くて明るくて温かい。
    “引き寄せ”現象もその一環で三次元の時空の物理世界だと都合よく”そう”なる現象のひとつにすぎないのかも。
    その手のわけのわからないような不思議な世界感をひっくるめでざっくり個人的に宇宙教としてます。

    宇宙教??の心地よいのは、ゆたかなエネルギーに満ちていること。
    後進国へ行って井戸の掘り方を教えてもらっているような感覚に近い感じがする。
    湧き出てくる”さいわい”や”いつくしみ”についての考察や在り方。
    確かに”わざわい”は、それを気づかせてくれる相対的なものだなぁ。

    私の目指す処、というのがぼんやりというかむしろ確かな手ごたえで観えてきました。
    何をすべきか、何をしたいか、というより”そう”でありたいと。
    とりあえず「いつくしみの源泉のエネルギー体」でありたいと。ソコに位置したい。

    そう、そしてワルツのようなもの。
    ピアニストのビル・エヴァンスの waltz for Debby ♪
    Jazzトリオの最も好きな1曲、なぜ惹かれたのか今わかりました。
    私が目指すのは、しかもそれがベーシストかコントラバス奏者なんでしょうね。
    土台でリズムを刻むことによって、その場の雰囲気をワルツ調に変えてゆくような使命みたいなもの!?
    私はいつも、主役をひたむきにひたすら立てるのにあたかも主役を食うくらいなんだけどの銘脇役、に惹かれるのもわかる気がしてきました。

    何をするか、何をすべきか、何をしたいかは、しょせん脇役、方程式のXや空欄でしかなく、主役はあくまでエネルギーの方程式。
    最も有名なのが、℮=mc2 ですね。アインシュタイン
    おそらく私の場合状態在り方が先かな、根底、志として、で、何をするにつながる感覚体なのだと私自身を感じます。
    先に何をしたいから始まって在り方が見える場合や現象の方が多いでしょうけど。
    まぁ、これもニワトリとタマゴなんでしょうけどね。

    で、何をするか、どうするか、は、たぶんでも確かな最もシンプルなこと。
    自分が惹かれるものに素直になり受け入れる、ということなんですね。
    私にとってのあらゆる惹かれるものの共存が自分自身の特化性なんだと思います。

    ひさびさにドドドドーと天からだか内なる中心からなのかよくわからないけど湧いて出てきたので綴っておきたいと思い…。

    街へ森へ今へ出かけましょう!!

  • 災害ボランティアと青鷺

    災害ボランティアと青鷺

    モヤモヤしていて、少し、どうしても手伝いたかった千曲川のお手伝いに行けたので。なんとなく須坂あたりへ行きたかったかな、派遣されたのは豊野赤沼地区、一番深く浸かったとこかな、一階の天井まできたそう。

    災害ボランティア、もう10年ぶり位。諏訪湖の岡谷市の土砂災害の時に、真夏だったな、暑くて作業でシャツがびしょ濡れになった記憶。
    あの時の泣きっ面に蜂の重労働に比べるとかなりスムーズで少し恐縮気味。

    集積所の管理の係の方は倉敷から駆けつけてくれたそう。
    被害に遭った時やはり助けられた側の方で。岡谷の時もそうだった。
    じっちゃん、ばっちゃん、てっきり近所の人かと思いきや新潟県からでかつての被害に遭われた方々。
    なんだか鼻の奥がつ~んときてしまうんだな、そういうの知ってしまった時。

    お昼時、私を誘ってくれた友人の作ってくれたおにぎり弁当を氾濫した川を見ながら。
    目の前に舞い降りたアオサギは何事もなかったかのように穏やかな顔をしてるんだよね。

    彼らアオサギには災害はどう映ったんだろう…

    失うモノは無かったんだろうか?

    私も積み上げたゴミとなってしまった山々を見ていると、
    便利にと思い手に入れたモノや家財と臭いと記憶がそこに山積みにされていて。

    自分の家のおそらく7割から8割は、目指す”豊かな暮らし”をするのに無くても成り立つものなのではないか。
    と思ってしまいました。

    ボランティア。いくと、誰かのお役に立てているようで有意義な気持ちになれるんです。
    少しだけ自分自身が浄化されていく感じ。他人のために良いことをしている感覚。
    目的の一つに自己満足があることは紛れもなさそう。

    でも近頃は他人と自分という概念が無くなってきていて、自分の庭の一部分を片付けている感覚に移り変わってきた自分に気づきました。
    で、この方が断然気が楽で。
    で、お金もそう思う。自分の財布という損得概念から、流れる、移動する、巡るモノ、コト。

    水に水没したお地蔵様たち、壁に白い部分と黄いみがかった境界線が見えるでしょうか。
    そこまで泥水に浸かって水面のはるか下のお地蔵さまたちは新たな再開を念じていてくれたのかな。
    何も言わないからわからないけど、、というよりも言葉でなく体感や意識で感じられたことがほっとした。

  • 何の隔たりもなく伝わること

    以前たまたま入院していた時、とても不思議でそしてかけがえのない素晴らしい体験をいくつもしました。

    そのひとつに、

    テレビから聴こえるオーケストラの素晴らしさがダイレクトに心臓?心?全身?を揺さぶったのです。

    6人部屋の雑居部屋、カーテン一枚が壁、スペースはぎりぎり一人用ベッド、テレビはノイズと白黒気味で、安い片耳イヤホン。

    ただいえるのは、悪夢と感じていた仕事からから離れ、なぜか満ち足りて幸せだったこと。

    悪環境?のもと、嫌いではないけれどあまり関心のなかったごくごく平凡なオーケストラの演奏が、

    何の隔たりもなく私の心を壊れるばかりに揺さぶったのです。心臓バクバク、全身鳥肌、涙じゃーじゃー!でしたね。

    na、何!!??コレ!!??

    スクリーン、ノイズ、色、音質、あとなんだろう??何もかものフィルターが外れて心に直接とびこんだような。たぶん隔たるもののない一体だったから??

    演奏者の技術すら隔ててなんらかのエネルギーがダイレクトに。

    隔たりを感じているのは錯覚、音響装置なんて、受け取る側の心や感受性でいくらでもカバーできる、

    AとBはもともとひとつである。たぶんすべてはひとつ?

    そんなことを実感、実体験しました。

    障害は外には無い、全て内側にありそう。

    そんな40歳位のあの秋から、はや10年あまり。

    私51に今日なりました。もうこの世で半世紀以上も生きてることになりますね。

    またまた自己記録更新です。51をマークしました。

    よりゆたかな人生はまだまだこれから。今が一番かも。望みに満ち溢れる人生の真っ只中、だな。