災害ボランティアと青鷺
モヤモヤしていて、少し、どうしても手伝いたかった千曲川のお手伝いに行けたので。なんとなく須坂あたりへ行きたかったかな、派遣されたのは豊野赤沼地区、一番深く浸かったとこかな、一階の天井まできたそう。
災害ボランティア、もう10年ぶり位。諏訪湖の岡谷市の土砂災害の時に、真夏だったな、暑くて作業でシャツがびしょ濡れになった記憶。
あの時の泣きっ面に蜂の重労働に比べるとかなりスムーズで少し恐縮気味。
集積所の管理の係の方は倉敷から駆けつけてくれたそう。
被害に遭った時やはり助けられた側の方で。岡谷の時もそうだった。
じっちゃん、ばっちゃん、てっきり近所の人かと思いきや新潟県からでかつての被害に遭われた方々。
なんだか鼻の奥がつ~んときてしまうんだな、そういうの知ってしまった時。
お昼時、私を誘ってくれた友人の作ってくれたおにぎり弁当を氾濫した川を見ながら。
目の前に舞い降りたアオサギは何事もなかったかのように穏やかな顔をしてるんだよね。
彼らアオサギには災害はどう映ったんだろう…
失うモノは無かったんだろうか?
私も積み上げたゴミとなってしまった山々を見ていると、
便利にと思い手に入れたモノや家財と臭いと記憶がそこに山積みにされていて。
自分の家のおそらく7割から8割は、目指す”豊かな暮らし”をするのに無くても成り立つものなのではないか。
と思ってしまいました。
ボランティア。いくと、誰かのお役に立てているようで有意義な気持ちになれるんです。
少しだけ自分自身が浄化されていく感じ。他人のために良いことをしている感覚。
目的の一つに自己満足があることは紛れもなさそう。
でも近頃は他人と自分という概念が無くなってきていて、自分の庭の一部分を片付けている感覚に移り変わってきた自分に気づきました。
で、この方が断然気が楽で。
で、お金もそう思う。自分の財布という損得概念から、流れる、移動する、巡るモノ、コト。
水に水没したお地蔵様たち、壁に白い部分と黄いみがかった境界線が見えるでしょうか。
そこまで泥水に浸かって水面のはるか下のお地蔵さまたちは新たな再開を念じていてくれたのかな。
何も言わないからわからないけど、、というよりも言葉でなく体感や意識で感じられたことがほっとした。